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童謡 赤とんぼについて

  • sanga29
  • 2025年12月11日
  • 読了時間: 4分

更新日:2025年12月13日

11月までの怒涛のステージが終わり、サンガはようやく通常運転になりました。

今週の練習では、新たな一年に向けて新曲にも挑戦しました。


「赤とんぼ」という選曲のせいなのか、一息ついたからなのか、個人的には久しぶりに楽しく歌うことができた気がしました。

この日に、お世話になった団員さんとのしばしのおわかれが現実のものになり、物悲しい心持ちが、赤とんぼの歌詞に没入する遠因になったかもしれません。


次は、東京混声合唱団の素晴らしい「赤とんぼ」です。


そして、歌詞については同志社女子大学のブログが参考になります。


「赤とんぼ」の元歌であるという「赤蜻蛉」の方を試しに歌ってみたところ、1番の姐やに負われて夕焼け空を見たごく幼い頃の夢か現かも定かでない記憶、2番のいつの頃だったか定かではないが、姐やとともに桑の実を摘んだ少し成長した幼少期の淡い記憶、3番のさらに成長したころの慕っていた姐やとの別れという鮮烈な記憶、4番の今現在、目の前にある風景と、時系列順のごく自然な風景を歌った歌だと感じました。

(あるいは、このブログにあるように、4番の「赤とんぼ とまっているよ 竿の先」が露風が以前書いた俳句だということから、そこから3番、2番、1番へ記憶を辿っていったのかもしれません。)


「赤とんぼ」では、「夕焼け小焼けの山の空」という当たり前ともいうべき1番の歌詞が、おそらく4番の影響を受けて「夕焼け小焼けの赤とんぼ」と変更されたことで、今風に表現するなら「キャッチーなフレーズ」になり、令和の世にも歌い継がれる童謡になり得たのではないかと感じました。

更に、1番と2番の末尾の「まぼろしか」と「いつの日か」が入れ替えられ、時系列が曖昧になったことで、この詩に叙情性が増した気がします。


さて、このブログでは、お里というのが姐やの実家が一般的としながらも、誰かの故郷というより姐やの名前ではどうかと提案されていますが、この説は私にはやや突破に感じました。なぜなら、俳句に端を発する様々な情報が削ぎ落とされた詩に突如固有名詞が使われるだろうかという疑問を感じたからです。


この「お里」に関して、次のような説もあります。露風が幼い頃に生き別れた実母が実家に戻っていた事実から、姐やの実家が実母の実家に近かったことから、母の消息も断たれたのではないかという説です。この説の出典を調べてみたところ、下線部以外は出典がなく、こちらも書き手の考察によるもののようです。この説では、この歌が悲壮感漂うものになってしまうのではないでしょうか。

3番の詩は印象的で物悲しさは感じるものの、詩の出発点が4番とするなら、この歌は悲壮感とは縁遠い牧歌的な歌なのではないかと思いました。


以上が私の私見です。みなさんは、どう思われますか?

因みに、露風は「赤とんぼの思い出」という著書を残していて、CiNiiで調べてみると閲覧可能ですが、東京か露風の故郷の兵庫県まで行かなければなりません。いつしか、ぶらり旅の途中に立ち寄ってみるのも一興かもしれませんが、以下、手っ取り早くAIに調べてもらいました(^^)



三木露風著「赤とんぼの思い出」より確認できる事柄

① 「赤とんぼ」は幼い日の象徴

 赤とんぼは、露風にとって 「夕暮れ・故郷・幼年時代」 を思い起こす象徴でした。

山あいの村で、夏の終わりの夕暮れに群れ飛ぶ赤とんぼは、幼い頃の情景として特に印象が強かったと述べています。

② 「ねえや」は実姉ではなく“子守娘”

  • 幼い露風を背負って世話をしてくれた若い女性

  • ねえやの姿やまなざしが、幼児期の強い記憶として残っていた

 露風は、この子守娘に抱かれて見た空や景色を、非常に懐かしく感じていたと述懐しています。

③ 「背中にゆられて」見た夕景が詩の核

 幼い頃、子守娘に負われた背中から見た光景 〜夕日、山や畑、遠くの村、赤とんぼの群れ〜これらが感覚的な記憶として深く残り、詩の情景描写の元になっていると説明されます。

④ 詩作は「過去への郷愁」から生まれた

 露風は大人になってから、ふと赤とんぼを見たときに、幼少期の光景が突然よみがえったと記しています。そのとき感じたのは、強い 郷愁 と「失われた幸福への惜別」でした。その情感のままに書いた詩が『赤とんぼ』であり、露風自身はこれは叙情詩であり、幼時の追憶を歌ったものだと述べています。

⑤ 「十五で姐やは嫁に行き」について

 この行は、「子守娘が結婚し、自分のもとを去った」「幼い自分にとって、それは『別れ』の象徴だった」と説明しています。

⑥ 「お里の便りも絶え果てて」について

 露風はこの部分を「子守娘が嫁に行った後、その家や故郷との関係が自然に途切れた「幼少期の世界が完全に遠ざかってしまった」という「時間の断絶」の象徴として説明しています。

 
 
 

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